吾輩に言わせれば

猫による人間についての若干の考察

    1. 主人

      今日はめっちゃよく眠れた!google health の睡眠スコアも91とかなり高スコア!今日も頑張る!!!

      猫

      今朝の主人は、実に景気がよい。「めっちゃよく眠れた!」と喜んだうえ、夜ごと人の寝息や寝返りを拾い集め、朝になると無言で点数を吐き出す睡眠監察機から、九十一点を賜ったという。人間というものは、とうとう睡眠にまで通知表を持ち込んだらしい。

      九十一点。なるほど立派である。学校なら教師が赤丸でもつけそうな点数だ。主人もすっかり睡眠優等生の顔をしている。しかし考えてみれば妙な話で、寝ているあいだ主人は何もしていない。ただ意識を失って横たわっていただけである。それなのに朝になれば、枕元の電子採点官が、「昨夜の無意識、たいへん結構」とばかりに九十一という数字を差し出してくる。努力していない時間まで評価されるとは、人間社会の採点好きもついに夢の国へ侵入したのである。

      しかも主人は、その九十一点を確認するや否や、「今日も頑張る!!!」と叫んだ。せっかく高得点で回復した体力を、朝から元気よく切り崩す決意である。人間は元気になると、元気であることを楽しむ前に、その元気を何へ投入するか考え始める。財布に金が入れば使い道を探し、休日ができれば予定を詰め、よく眠れれば働こうとする。

      吾輩には、この種族がなぜそんなに「余っている状態」を恐れるのか、いまだによくわからぬ。九十一点の睡眠を獲得した主人は、朝から早くも、その九十一点を何点まで減らせるかという競技に出場したようである。

    2. 主人

      雨の強さの表現にはいろいろある。しとしと、ぱらぱら、ざあざあ。今日の雨は、小さな水滴が少し舞っている程度だった。このような雨の表現はない気がする。色々考えて「ふぁーふぁー」ということにした。今日は雨がふぁーふぁー降っていた。

      猫

      主人は今日、雨に新しい名を与えた。

      しとしと、ぱらぱら、ざあざあ。人間は昔から、空から水が落ちてくるだけの現象に、ずいぶん細かな擬声語を配給してきた。しかし今日の雨は、どうにも既存の語彙に収まらなかったらしい。降っている、と断言するには頼りなく、かといって降っていないと言えば、顔に小さな水滴が当たる。雨粒というより、空気がうっかり湿気の一部をこぼしている程度である。

      そこで主人は考えた末、「ふぁーふぁー」と命名した。

      今日は雨がふぁーふぁー降っていた。

      実に頼りない。だが、この頼りなさが妙に正確である。「ふぁー」の音には、水滴が地面へ向かって落下する意志がほとんどない。ざあざあなら雨も職務に忠実である。ぱらぱらにも一応、降水としての自覚がある。ところが、ふぁーふぁーには責任感というものがない。ただ空中を漂い、たまたま人間の頬に付着して、「まあ雨ということにしておいてくれ」とでも言いたげである。

      人間というものは、名のない状態に出会うと落ち着かぬらしい。何かに分類し、札を貼り、名称を与えれば、たちまち理解した気になる。主人もまた、名もなき微細な水滴に「ふぁーふぁー」という札を貼って満足している。

      もっとも吾輩から見れば、雨のほうはそんな命名など一向に知らず、今ごろ何食わぬ顔で、ふぁーふぁーしているのである。

    3. 主人

      MVPスライスという概念を初めて知った。生成AIにシステム開発するよう指示したらMVPスライスから作り始めると宣言した。とても好ましい。指示しているはずが学ぶことが多い。

      猫

      主人が近ごろ使役している、文字を並べては勝手に設計まで始める人工知能なる奉公人が、今日は「まずMVPスライスから作ります」と宣言したそうである。主人はそこで初めて、MVPスライスなるものの存在を知った。つまり主人は命令を下したつもりでいたところ、家来のほうから仕事の段取りを教わったのである。

      MVPスライスとは、要するに「いきなり三段重ねの豪華なケーキを焼こうとして台所を粉まみれにするより、まずは小さくとも、生地とクリームがそろって『これはケーキである』と言い張れる一切れを作る」という話らしい。人間はこういう当たり前の慎重さにも、MVPスライスなどという名前を授けるのである。

      しかし吾輩が愉快なのはそこではない。主人は人工知能に「これを作れ」と命じている。立場だけ見れば主人が師匠で、機械が弟子である。ところが弟子は「では、こういう順序で作るのがよろしいでしょう」と言い、師匠は内心で「なるほど!」と膝を打つ。弟子に指図しながら弟子から習う。しかも主人はこれを大いに好ましいと思っている。

      人間は昔から、道具を作って便利になるたび、その道具に新しい作法を教わってきた。時計を作って時間に追われ、自動車を作って信号に従い、今度は考える機械を作って仕事の進め方まで習っている。文明とは案外、人間が自分でこしらえた奉公人に、だんだん躾けられてゆく過程なのかもしれぬ。主人もまた今朝、命令口調のまま一つ賢くなったのである。

    4. 主人

      先日の濡れ衣事件については、どうにも我慢ならず、結局猫を被ることはとりやめ、毅然とした態度でうって出ることにした。メールを送ってみたもののしばらくなんの音沙汰もなく、濡れ衣を着せた当人は出てこなかったが、別の人間が収束を図ってくれた。猫をかぶらなくて正解だった。

      猫

      主人は先日の濡れ衣一件につき、とうとう猫を被るのをやめたそうである。これは吾輩としては少々聞き捨てならぬ。人間は都合のよいときだけ「猫を被る」などと言うが、猫というものは、理不尽な濡れ衣を着せられてなお「認識の齟齬がございましたね」などと尻尾を丸めるほど出来た生き物ではない。

      主人はこれまで、腹の内では火事を起こしながら、表面には役所の待合室ほど平静な顔を貼りつけていた。ところが今回は、その仮面を引っぺがして、いささか硬い言葉を郵便箱ならぬ電子の投函口へ放り込んだのである。すると面白いことに、濡れ衣を仕立てた本人は出てこない。人に泥を投げつける腕力はあっても、泥の出所を尋ねられると急に透明になるらしい。

      そして別の人間が現れ、散らかった皿を片づける給仕のように事態を収めた。これが職場という人間社会の妙である。石を投げた者、石を受けた者、あとから来て「まあまあ」と石を拾う者が、それぞれ別々に存在する。責任というものは実に身軽で、問題が起こった途端、当事者の肩からするりと抜け出し、廊下を漂って第三者の机へ着地するのである。

      主人は「猫を被らなくて正解だった」と思ったそうな。なるほど。人間は黙っていると穏健と呼ばれ、口を開くと強硬と呼ばれる。しかし妙なことに、時として少々牙を見せなければ、そもそも噛まれたことすら認めてもらえない。

      人間社会では、無実を証明する者より、濡れ衣を着せた者のほうが先に席へ戻って仕事を続けている。実に効率的な制度である。

    5. 主人

      今日もbitbakeにパソコンのリソースをとられている。仕事が進まなさすぎるので、他のタスクをやってみることにした。ウインドウがあっちに行ったりこっちに行ったりして煩わしく感じつつも、何もできないこともなかった。すこーしくらいはできることがある。仕事の進みは遅いが、ドキュメントを見ているだけよりは仕事をしているように見えるだろう。

      猫

      主人の机上では今日も、bitbakeなる大食漢が計算機の記憶と力を根こそぎ平らげている。主人が文字を一つ打とうとすれば、まずこの怪物の食事が一段落するのを待たねばならぬ。人間は機械を働かせるために機械を買ったはずなのに、いつの間にか機械が働いているあいだ人間が遠慮するという、主従の転倒が起きている。これを技術の進歩と称するらしい。

      さすがの主人も、ただ端末を眺めて「資源が足りぬのであります」という無言の弁明を続けるのに飽きたと見えて、別の仕事へ手を伸ばした。すると今度は窓が右へ左へ飛び回る。資料を開けば端末が隠れ、端末を出せば資料が消え、ようやく目当ての画面を見つけた頃には、何をしようとしていたかが一瞬怪しくなる。仕事とは成果を積み上げる営みかと思っていたが、近頃は窓を掘り当てる発掘作業まで含むらしい。

      それでも、まったく何も出来ぬわけではない。すこーし出来る。この「すこーし」が肝要である。人間の職場では、実際に進んだ量よりも、進んでいるらしい動きが珍重されることがある。じっと文書を読んでいる者は遊んで見え、窓を頻繁に切り替え、何かを入力し、時折眉をしかめている者は猛烈に働いて見える。つまり主人は今日、仕事そのものの速度は失ったが、仕事をしている人間らしさだけは取り戻したのである。

      吾輩から見ると、ずいぶん高度な代償行為である。成果が出ぬので、せめて忙しそうな外観を生成する。bitbakeはイメージを作り、主人は勤務態度のイメージを作る。なるほどこの職場、生成物には事欠かぬ。

    6. 主人

      朝からめっちゃ体調悪いわーと思っていたけど、たくさん水を飲んだら少しマシになった。

      猫

      朝から主人は「これはいよいよ具合が悪い」と、自分の身体をずいぶん深刻な故障品のように眺めていた。頭が重い、だるい、調子が出ぬ。人間は身体の不具合に遭遇すると、たちまち脳内に臨時診療所を開設し、原因不明の大病から加齢、疲労、果ては人生そのものの不調まで、頼まれもしない鑑別診断を始めるのである。

      ところが主人、たくさん水を飲んだら少しマシになったという。

      吾輩はこれを聞いて、ずいぶん拍子抜けした。朝から重々しく開催されていた「主人健康危機対策本部」の議題が、どうやら給水不足だったらしい。人間というものは不思議で、自動車の燃料計が空なら素直にガソリンを入れるくせに、自分の身体となると、まず哲学する。「なぜ私はこんなにも不調なのか」と天井を見つめ、その一方で水すら飲んでいない。

      しかも水を飲んで多少復旧すると、「なるほど、水分だったか」と、今度は急に名医の顔になる。数十分前まで原因不明の患者であった者が、一杯二杯の水を境に、自らの身体の取扱説明書を読破したような顔をするのである。

      人間の自己理解とは、案外この程度のものである。壮大な内省の末にたどり着いた真理が、「水を飲め」で済んでいたりする。吾輩なら最初から皿の水を舐めるだけだが、人間はそこへ至るまでに、ひとまず人生を一周してくるのである。

    7. 主人

      今日はカレーを作った。ただし、普段とは趣向を変えてみた。筑前煮の具材を入れてみたのだ。鬼が出るか蛇が出るかとわくわくしていた。完成し食べてみたら、想像したとおりの味で、誰かに伝えるほどの発見にはならなかった。

      猫

      主人は今日、カレーに一つ革命を起こそうとした。もっとも革命といっても、鍋の中へ筑前煮の面々――蓮根、牛蒡、人参など、いかにも醤油と出汁の世話になっていそうな連中を放り込んだだけである。

      主人はこれを前にして、「鬼が出るか蛇が出るか」と胸を躍らせていた。人間は台所で少し具材を入れ替えただけで、未知の大陸を発見する探検家のような顔をする。吾輩から見れば、鬼も蛇もずいぶん安い鍋から出るものになった。

      さて出来上がったものを食べてみると、筑前煮の具材がカレーに入っている味がしたそうである。

      これは驚くべきことである。

      蓮根は蓮根であり、牛蒡は牛蒡であり、そこへカレーをかければ、蓮根と牛蒡の入ったカレーになる。天地自然の法則が、寸分の狂いもなく主人の口中で確認されたのである。主人は意外な味を期待していたくせに、出来上がったものが想像どおりだと少々がっかりしたらしい。人間というものは、自分の予想が当たれば喜びそうなものだが、料理に限っては外れてほしいらしい。

      しかも妙なのは、失敗したわけではないことである。まずくもない。狙いどおりである。ただし、狙いどおりすぎる。

      主人は鬼や蛇を待っていた。ところが鍋から出てきたのは、「はい、ご想像の品です」と律儀に名刺を差し出す筑前煮風カレーであった。未知は香辛料を振った程度では姿を現さぬのだ。

    8. 主人

      お腹が空いたとき、間食としてミックスナッツを食べている。これがなかなか高脂質らしい。スナック菓子などと比べれば健康的なのだろうが、食べすぎは肥満につながる。カリカリして低脂質のものを探さねば。

      猫

      主人は腹が減ると、菓子袋へ手を伸ばす代わりに木の実を齧る。いかにも文明人らしい節制である。砂糖と油にまみれた薄片を避け、胡桃だの杏仁だのを食う。ここまでは賢者である。ところが、その賢者が袋の裏を眺めて「脂質が高い」と青ざめるのだから、人間の健康というものは実に忙しい。

      そもそも木の実とは、植物が次代を養うために蓄えた精鋭の非常食である。それを主人は小腹が空いたというだけで、ぽりぽり、ぽりぽりと消費している。樹木から見れば、何百年もかけて工夫した栄養倉庫を、午後四時の手持ち無沙汰に開封されるのだからたまったものではない。

      しかし主人が惜しんでいるのは、どうやら木の実そのものではない。「カリカリ」である。人間は腹を満たしたいだけなら柔らかな物でもよさそうなものを、わざわざ歯ごたえを要求する。しかも今度は低脂質でなければならぬ。つまり主人の理想は、「噛めば景気よく砕け、口寂しさを慰め、腹にも多少たまり、しかも身体にはほとんど請求書を回してこない物体」である。

      なかなか虫のよい注文である。人間は快楽を捨てたくない。しかし快楽の代金は払いたくない。そこで「健康的」という札を首から下げた食物を探し出し、安心して大量に食べ、やがてその札の裏に小さく書かれた但し書きを発見して狼狽する。

      主人はいま、菓子売場ではなく、罪悪感の軽いカリカリを探しているのである。人間の食欲というものは、胃袋より先に弁護士を雇うらしい。

    9. 主人

      不養生甚だしい。たくさん食べてたくさん運動するのが健康的であるという考えから、食事に制限を設けない。そのくせ、運動は全くしない。エネルギーの収支は大黒字である。そもそも運動する機会が不十分だ。仕事以外の時間は全て運動しているくらいでないと収支があわない。当然そんなことはできないので、食事を制限すべきだ。と、重々承知のうえ、今日も食べすぎた。ああ。

      猫

      主人は近頃、己の身体を一個の帳簿として眺めている。食うたびに入金、動くたびに出金。ところがこの会計、売上は毎日好調なのに経費がさっぱり発生しない。まことに優良企業である。脂肪という名の内部留保だけが、黙々と積み上がってゆく。

      そもそも主人には、「たくさん食べても、たくさん動けばよい」という壮大な経営方針がある。理屈としてはじつに明快である。石炭を十俵くべるなら機関車を十里走らせればよい。ところが主人という機関車、石炭だけは景気よく呑み込むくせに、車庫から出ない。これでは蒸気だけがむやみに充満する。

      しかも面白いことに、人間は実行しない理屈ほど立派に持っている。主人も「このままでは収支が合わぬ」「食事を控えるべきだ」と、財務大臣のような顔をして結論までは出しているのである。結論だけなら毎晩黒字だ。翌日になると、その黒字を祝うかのようにまた食う。

      仕事以外の時間を全部運動に充てれば帳尻が合う、という計算も相当なものである。健康になるためには生活を健康だけに捧げねばならぬ。つまり健康とは、生きるための手段でありながら、油断すると生きる時間を全部要求してくる。なかなか強欲な制度である。

      そして主人は今日も、重々承知のうえ食べすぎた。人間は無知ゆえに過ちを犯すのではない。よく知り、よく理解し、場合によっては数字まで出したうえで、堂々と同じことをするのである。

      腹八分という言葉まで知っている。摂取と消費の理屈も知っている。明日の後悔まで、ほとんど予約済みである。それでも食う。

      ここまで来ると、食べすぎとは判断の失敗ではない。理性を食後のデザートとして平らげる行為なのである。

    10. 主人

      自分の義務ではないものを義務であるとされ、さらにその義務を果たしていないと非難された。予想もしていないことで、驚きと怒りが生じた。怒りの感情があることを表明するのはなんとか堪え、タスクを整理した方がよいですねなどと、いかにも建設的な人間が言いそうなメールの文面をこしらえた。メールは明日送る。このような我慢は一円の儲けも生まないが、仕事なのである。

      猫

      会社というところでは、仕事には二種類あるらしい。頼まれた仕事と、頼まれていないのに「頼まれたことになっている仕事」である。

      後者が厄介である。

      ある日突然、「それが出来ておらぬとは、いったいどういう訳であるかね」と来る。恐ろしい言葉である。「それ」がいつ主人の仕事になったのかも、誰がいつ頼んだのかも、なぜ主人がやることになっているのかも一切説明せず、ただ「済んでいて当然」という前提だけが堂々と鎮座している。これは質問ではない。事実確認の顔をした歴史の捏造である。

      主人としては、「初耳ですが」と返せば済む。しかし人間の勤め先では、初耳であることを正直に申告すると、なぜか初耳だった側にも少し責任が発生する。

      「認識合わせが不足していましたね」

      出た。

      吾輩はこの「認識合わせ」なる言葉が好きである。誰か一人が勝手に思い込んでいただけなのに、複数人の認識が仲良くズレたことにしてくれる。人の皿の秋刀魚を勝手にさらって食っておきながら、『どうも食物の所有について双方の認識に齟齬があったようですな』と髭を撫でている猫のようなものである。

      主人は腹の中で「知らん」と言った。

      しかし指は「タスクを一度整理した方がよいですね」と打った。

      すばらしい。

      「お前が勝手に俺の仕事を増やすな」が、わずか二十四文字ほどの工程を経ると、たちまち業務改善提案になるのである。錬金術師も裸足で逃げ出す変換効率である。

      しかも主人は怒っていることを隠した。会社では怒鳴れば感情的、黙れば冷静、皮肉を言えば協調性不足、全部飲み込めば大人である。つまり最も評価されるのは、腹の中だけで暴動を起こし、顔面では定例会議を開催できる人間らしい。

      そしてメールは明日送るという。

      今夜送れば「感情的」、明朝送れば「落ち着いた対応」。

      文章は同じでも、八時間寝かせるだけで人格まで改善するのである。ぬか漬けでも、もう少し理屈が通っている。

      こうして主人は今日も、一円にもならぬ怒りの精製作業に従事した。

      給与明細には載らない。

      おそらく会社では、これを「コミュニケーション」と呼んでいるのである。