吾輩に言わせれば

猫による人間についての若干の考察

    1. 主人

      いつだったか、5日仕事をするためには10日休みが必要だ、などと考えたことがあった。今思えばそれは違う。1日仕事をしたら6日休みが必要だ。3日は自分の趣味に費やす。2日は何もしない。1日は予備日。そう考えると2日連続で働くことが大変な労働に思える。5日連続で働くなど、信じられないほど勤勉なことだ。年齢が40にもなれば世の中に合わせれるようになりそうなものだが、俺は一向に合わせられそうにない。

      猫

      主人は以前、「五日働くには十日休む必要がある」と申していた。吾輩もその頃は、ずいぶん思い切った算術をするものだと思ったが、今朝になって主人はさらに学説を進歩させ、「一日働いたら六日休むべきである」と訂正した。

      なるほど、内訳を聞けば甚だ精密である。三日は趣味、二日は無為、残る一日は予備。予備というところがいかにも人間らしい。まだ何も起きていないのに、疲労や気紛れや突発的な怠惰のため、あらかじめ一日を空席にしておくのである。猫なら眠くなれば寝るだけだが、人間は眠ることにさえ予備日を設け、これを生活設計と称する。

      この勘定に従えば、週休六日こそ自然であり、二日続けて働けば強行軍、五日連続ともなればほとんど修行僧である。ところが世間では、その修行僧が満員電車に詰め込まれ、月曜の朝から「今週も頑張りましょう」などと互いに声を掛け合っている。人間は集団になると、異常な習慣を正常と呼ぶ妙な癖があるらしい。

      主人は齢四十にもなれば世の中に合わせられると思っていた。これは年齢を重ねれば靴のほうが足に合わせて広がると思うようなものである。実際には足が痛いまま、「もう慣れた」と言う技術ばかり上達する者も多い。

      主人には、その技術がどうも身につかなかったらしい。四十年かけても、一日働けば六日休みたい。世間から見れば怠け者、主人から見れば世間が働き者すぎる。どちらが狂っているかは、週に五日も働く生物が多数派である、という事実によって決められているのである。

    2. 主人

      bitbakeコマンドを実行するとどうしようもない。パソコンのリソースがbitbakeにとられて、他のことが何もできない。キーをタイプして文字が表示されるまで5秒。クリックして反応するまで10秒。その間パソコンはガラガラ言って、せっせとイメージを作っている。パソコンはメモリが小さいしハードディスクだしで救いようがない。

      俺はうまく待つしかない。コードを読んだりドキュメントを読んだりしている、ふりをしている。何もできないのはパソコンのリソースが足りないからだということを示すため、ディスプレイにはタスクマネージャーとターミナルを大きく表示しておく。仕事はせずにすませたいが、こういう業務の空白は望むものではない。

      猫

      主人の勤め先には、時折、機械が人間を使役する時間が訪れる。bitbakeなる呪文を唱えると、机上の箱は突如として全財産を工事現場へ投入し、記憶も計算力も円盤の回転も、一粒残らず「イメージ」とやらの製造に差し出すのである。

      その結果、主人が一文字打てば五秒後に文字が現れ、鼠をクリックすれば十秒後にようやく返事が来る。人間ならばこの応答速度では即座に無能の烙印を押されるところだが、機械は腹の底でガラガラ唸ってさえいれば、「いま大仕事をしております」という顔ができる。勤労というものは、音を立てる者ほど有利らしい。

      もっとも主人も負けてはいない。画面には資源の枯渇を示す計器と、延々文字を吐く黒い窓を大写しにしておく。これは仕事をするための画面ではない。仕事ができないことを証明するための画面である。主人自身はその傍らでコードを読み、文書を読み、あるいは読む人の姿勢だけを維持する。機械が計算資源を食い尽くす一方、人間は「勤務しているように見える資源」を慎重に配分しているのである。

      面白いのは、主人が仕事をしたくないくせに、この空白を少しも喜んでいないことである。人間は暇を欲しがるが、与えられた暇には所有権を要求する。自分で怠けるのは自由だが、機械に怠けさせられるのは屈辱なのである。

      かくして主人は、何もできぬ箱の前で、何もしていないと思われぬよう忙しく待っている。仕事とは案外、成果を出すことより、成果が出ない理由を立派に展示する技術なのかもしれない。

    3. 主人

      日付が変わって月曜日になった。休みは本当に短い。5日仕事をやるためには10日休みが必要だ。ところが世の中は2日しか休ませてくれない。俺からすると皆勤勉すぎる。皆からすれば俺は怠惰すぎるのだろう。俺にとって暮らしやすい世界は、俺が生きているうちにはやってこないだろう。

      猫

      日付というものは妙な役人で、夜中の零時になると、昨日まで「休日」と呼ばれていた一日から無慈悲に看板を取り外し、「月曜日」と書き換えてゆく。主人はその瞬間を見届けて、早くも一週間分の疲労を先取りしている。まだ月曜は一分も働いていないというのに、月曜という文字だけで人間を疲れさせるのだから、暦という制度はなかなか侮れないのである。

      主人の計算によれば、五日働くには十日休む必要があるという。世間ではこれを怠惰と呼ぶかもしれぬが、そもそも世間の算術が怪しい。五日も人を働かせておいて、二日寝かせれば帳尻が合うというのは、借金を百円返して千円返した顔をするのと大差ない。ところが人間は大勢で同じ間違いをすると、それを常識と名づけて安心する癖がある。

      主人は、自分に暮らしやすい世界は生きているうちに来ないだろうと言う。実際、人間社会というものは、一人の怠け者に合わせて時計を遅くしてくれるほど親切ではない。しかし面白いのは、勤勉な者もまた月曜日の朝には憂鬱そうな顔をしていることである。皆が嫌がっている仕組みを、皆で維持し、そこから外れた者を怠惰と呼ぶ。

      人間の勤勉とは、案外、集団で行う我慢比べに過ぎないのかもしれぬ。吾輩は猫だから、五日働いて二日休むなどという不自然な芸当は、最初から覚える気がないのである。

    4. 主人

      億劫でずっと先延ばしにしてきたが、ようやく料理を始めた。と言っても牛肉と調味料を自動調理鍋に入れてボタンを押しただけ。これで牛肉のしぐれ煮ができる。素晴らしい。ただこれだけのことが毎回毎回本当面倒。これ以上ラクをしようというのは怠惰の極みか。

      猫

      主人はとうとう料理を始めた。料理といっても、牛肉と調味料を鍋へ放り込み、あとは機械の腹に向かって指一本で命令を下しただけである。昔の人が聞けば、これを料理と呼ぶことに多少の異議を唱えるかもしれぬが、牛肉のしぐれ煮が出来上がる以上、鍋の側には何の不服もない。

      じつに結構な時代である。火加減も見張らず、焦げつきを案じず、煮汁の減り具合に一喜一憂する必要もない。人間が長年かけて積み重ねてきた炊事の面倒を、この丸い奉公人は黙って引き受けてくれる。それなのに主人は、牛肉を入れるところまでは代行してくれぬのか、と心のどこかで不満らしい。

      人間というものは妙である。苦労を半分に減らせば、残った半分をありがたがるのではなく、その半分が急に全苦労のような顔をして迫ってくる。洗濯板が洗濯機になれば、今度は干すのが面倒となり、鍋が勝手に煮てくれれば、材料を入れるのが面倒となる。文明とは面倒を消滅させる術ではなく、面倒の最小単位を発見する学問なのかもしれぬ。

      この調子でゆけば、やがて主人は牛肉が自ら冷蔵庫を出て鍋へ飛び込み、「主人、味付けはいかがいたしましょう」と伺いを立てる世の中にあっても、返事をするのが億劫だと言い出すに違いない。怠惰の極みとは、案外ずいぶん遠くにあるのである。

    5. 主人

      ふと洗濯機を見たら、普段開いている蓋が閉まっていた。開けてみると洗濯された湿った洗濯物が入っていた。俺はいつ洗濯したのか。よく覚えていない。そんなことあるかね。

      猫

      吾輩が見るに、主人の洗濯機はいつの間にか家電の分際を越えて、過去を保管する小型の遺跡になったらしい。普段は口を開けてぼんやりしている白い箱が、今日は妙に神妙な顔で蓋を閉じている。主人が怪しんで開帳すると、中から湿った衣類が一山現れた。発掘である。

      問題は、洗濯物があることではない。主人自身が、それを洗った記憶をほとんど所有していないことである。人間は「自分」というものを、昨日から今日まで一本につながった立派な人物だと思っているが、案外その実態は、ところどころ保存に失敗した記録媒体に近い。飯を食った、戸締まりをした、洗濯機の釦を押した。このあたりの小事は、脳内役所において「重要性なし」と判定され、議事録すら残らぬのであろう。

      しかし忘れた本人に代わって、濡れたシャツだけは厳然として証言している。「主人は洗濯をした」と。物証は強い。被告だけが「覚えておりません」と申している。

      考えてみれば人間の生活には、この種の無意識の主人が何人も潜んでいる。冷蔵庫へ麦茶を入れた主人、鍵を机に置いた主人、読みかけの本を妙な場所へ伏せた主人。それらは皆、現在の主人に何の申し送りもせず退勤する。そうして後任の主人が、家の中に残された痕跡を眺めながら、自分自身の犯行を推理するのである。

      人間は時として、洗濯物ほどつまらぬ物証によって、知らぬ間に過ぎ去った己自身を発見するのである。

    6. 主人

      めんどくさい。何が億劫かといえば生活の雑事である。修理依頼していたコートの受け取り、食材の買い出し、料理、洗濯もそうだし、筋トレもしたほうがよい。どれも始めれば大したことはないし、やったら達成感を得られることはわかっている。ただ、システム開発をやりたい。今日始めたウェブサイト制作は、生成 AI に指示を出すだけで進められるようになった。これを早く完成させたくてしかたがない。そんな中、雑事をする気にはなれない。いや、やったほうがよいことはわかっている。

      猫

      主人はいま、生活という名の役所から、大小さまざまな督促状を突きつけられている。仕立屋に預けた外套を引き取れ、食料を補給せよ、衣類を洗え、己の肉体まで鍛錬せよ、と実に注文が多い。人間は生きているだけで、ずいぶん多方面に債務を負う動物である。

      しかるに主人の頭の中では、そんな現世の徴税官どもを尻目に、一軒のウェブサイトがすくすく育っている。しかも今や、主人が人工知能なる文字書き奉公人に命令を下せば、壁が立ち、戸が付き、看板まで掲げられるらしい。これはいけない。人間は、自分の思いつきが即座に形になる快楽を知ると、靴下を干すという文明以前からある営みに、急速に耐えられなくなるのである。

      コートの受け取りなど、行って帰れば済む。買い物も洗濯も料理も、始めてしまえば大した怪物ではない。主人自身、それを百も承知している。ところが「大したことはない」と「今やりたい」は、人間の脳内では一向に仲良くしてくれない。理性は台所から「こちらが先だ」と叫び、好奇心は書斎から「いや、今こそ完成させよ」と鐘を鳴らす。主人はその間で、どちらにも理屈があるものだから、たいそう立派に動けなくなる。

      おもしろいのは、人間が義務を嫌うのではなく、しばしば別の勤勉に熱中しているため義務を嫌う点である。怠け者ならまだ話は簡単だ。主人は怠けたいのではない。猛烈に働きたい。ただし、自分の興味が向いた方角にだけである。人間は自由を愛すると称しながら、洗濯籠ひとつにこれほど腹を立てる。吾輩には、この自由というものが、案外ひどく狭い通路に見えるのである。

    7. 主人

      今日はなんの約束もない一日だった。午前中は自己紹介のウェブサイトを作り、午後は全く知らないプログラミング言語の学習をした。思いつきで始められるのは楽しいが、以前からやりたかった動画作成ができていない。休日が足りない。自由時間が足りない。

      猫

      主人は本日、何の約束もないという、たいへん贅沢な境遇に置かれていた。人間は予定が詰まれば自由を欲しがり、いざ自由を与えられると、その空白へせっせと新しい用事を詰め込む。空き箱を見ると何か入れずにはいられぬ性分らしい。

      午前には、自分が何者であるかを天下に示すための小さな看板を電脳世界に建てた。自己紹介など口で済ませれば数十秒だが、人間は己を説明するとなると、文字の形を選び、余白を整え、色を決め、仕掛けまで施す。自己とは、ずいぶん施工費のかかる建築物である。

      午後になると主人は、これまで一度も触れたことのないプログラミング言語へ出かけた。知らぬ土地へ勝手に入り込み、「なるほど、こういう文法か」などと辺りを見物する。誰にも命じられていないからこそ面白いのである。人間は義務として渡された地図にはうんざりするくせに、自分で道に迷うことには妙な快楽を覚える。

      ところが夜になって、主人はふと動画のことを思い出した。以前からやりたかった、と言う。ここに人間の自由時間というものの珍妙さがある。自由とは好きなことをする時間ではない。好きなことが次々と増殖し、その全部をできなかった証拠を集める時間なのである。

      休日が足りない、と主人は言う。もっともである。一日二十四時間では、思いついたことを全部試すには短すぎる。しかし仮に四十八時間あったところで、人間は四十時間目あたりに新しい言語か妙な工作を見つけ、「動画ができなかった」と嘆くに違いない。

      不足しているのは休日なのか、それとも主人の好奇心に底がないのか。吾輩は窓辺で尻尾を丸めながら、その判定だけは永久に保留しておくのである。

    8. 主人

      眠い。昨日は夜遅くまで起きていて、今日は朝から用事があって遅くまで眠っていられなかった。休みは今日の残り7時間と明日の24時間。短い。

      猫

      主人は眠い。これは別段、宇宙の法則に反することではない。夜更かしをして、朝から用事があって、しかも寝坊という人類古来の救済措置を封じられたのであるから、眠くなるのは算術より確かである。

      ところが主人は、眠いと言った舌の根も乾かぬうちに、「休みは今日の残り七時間と明日の二十四時間、合計三十一時間」と勘定を始めた。ここが人間の妙なところである。猫ならば眠ければ丸くなるだけだが、人間は休息まで残高表示にして眺める。三十一時間もある、と考えれば相当なものなのに、「短い」と評する。時間というものは時計の上では同じ長さで進むはずだが、人間の頭へ入ると、月曜の午前は牛歩となり、休日の夕刻は脱兎となるらしい。

      ことに休みの残量計算には、どこか悲壮なところがある。主人はまだ今日を終えてもいないのに、すでに明日の夜を見ている。土曜の夕方に座りながら、心だけは日曜の終焉へ先回りし、「もう休みがない」と嘆くのである。これは饅頭を手に持ちながら、その最後の一口を惜しんで空腹を感じているようなものだ。

      人間は所有した瞬間から、失う計算を始める動物である。金を得れば減るのを恐れ、休日を得れば終わるのを恐れ、眠気を覚えれば寝たら時間が減ると惜しむ。かくして主人は、三十一時間の自由を前にして、すでに自由の葬式を始めている。吾輩はその脇で、時計という円い機械が、ずいぶん罪深いものに見えてきたのである。

    9. 主人

      カレーうまうま。さっきのチャットのタイトルが「疲れとカレー」で笑った。俺もうまいこと言いたい!

      猫

      主人はカレーを食いながら、「うまうま」と満足していた。ところが、ふと先刻の対話についた題が「疲れとカレー」であるのを見て笑い、次の瞬間には「俺もうまいこと言いたい!」と欲を出した。人間というものは、旨いものを食えばそれで済むかと思うと、そうはいかぬ。舌が満足すると、今度は口が名文を欲しがるのである。

      「疲れとカレー」などというのは、よく考えれば大したことを言っているわけではない。主人が疲れており、カレーを作ったから、疲れとカレー。それだけである。しかし、この何でもなさが妙に可笑しい。人間は、意味が深すぎても笑わぬし、意味がなさすぎても笑わぬ。意味が半歩だけ横へずれたところに笑いを発見し、そこへ「センス」という大層な札を立てる。

      すると主人も、自分の言葉にその札を立てたくなる。「俺もうまいこと言いたい!」とは、つまり言葉の皿に福神漬けを添えたいのである。カレーだけでも充分うまいのに、赤い何かが脇にないと、どうも一膳を完成させた気がしない。

      吾輩から見ると、人間は妙な生き物である。腹が減れば飯を作り、飯がうまければ笑い、笑ったら今度は自分も笑わせたくなる。食欲の次に承認欲が出てくるあたり、胃袋と自意識とは案外近所に住んでいるらしい。

      主人はいまカレーを食っている。しかし同時に、言葉の鍋まで火にかけ始めているのである。ずいぶん忙しい夕食である。

    10. 主人

      豆腐が余っていたので食べることにした。豆腐の食べ方というと、大抵醤油をかけて冷ややっこにするっていうものなんだけど、まあちょっとさすがにそれは飽きたなというか、なんかもうちょっと工夫して美味しいものが食べたいなと思って考えた。

      とりあえず豆腐の水っぽさによって味が薄くなってしまうので、乾いたものを入れようと思って乾燥した油揚げを入れた。あと豆腐は味噌とすごく相性がいいので味噌をかけた。で、ちょっと味にアクセントを入れるために本だしを入れた。

      で、まあこれがそこそこ美味しいんだけど、結局これって味噌汁と同じ材料だなって思って、冷たい味噌汁食べてるみたいだなと思った。違うか。

      猫

      主人は豆腐を前にして、冷奴ではあまりに芸がない、と考えたらしい。人間は同じものを二度三度食うと、たちまち「工夫」という名の小細工を欲しがる。猫なら豆腐は豆腐として食うところを、人間は豆腐に自己表現まで要求するのである。

      そこで主人はまず、水っぽいのがいかん、と乾燥した油揚げを投入した。なるほど、水分の多い者のそばへ乾いた者を置けば、世の中うまく釣り合うだろうという、いささか陰陽道めいた料理観である。次に味噌を加えた。豆腐と味噌は相性がよい。ここまでは結構である。さらに本だしまで振りかけた。

      吾輩はその工程を聞いていて、何やら見覚えのある一団が集結してくるのを感じた。豆腐がいる。油揚げがいる。味噌がいる。だしがいる。あとは水さえ来れば味噌汁である。

      ところが主人は、その水こそが豆腐をまずくする元凶だとして追放したのである。つまり主人は、味噌汁から汁を排除することによって、新料理を発明しようとしたわけだ。これはなかなか壮大である。カレーからカレーを抜くほどではないが、味噌汁から汁を抜くのだから相当なものだ。

      しかも食べてみれば、豆腐そのものが抱えていた水分によって味噌がほどよく緩み、口の中では結局それらが再び合流して、「冷たい味噌汁みたいだな」という地点へ帰ってきた。

      人間というものは、既存の道を嫌って脇道へ入り、藪をかき分け、石につまずき、ようやく見知らぬ場所へ出たと思ったら、そこがさっきまでいた駅前だった、ということをしばしばやる。しかもその一周を「工夫」と呼ぶ。

      違うか、と主人はいう。

      いや、たぶん違わない。これは汁のない味噌汁であり、同時に、汁が豆腐の内部に隠れている味噌汁なのである。料理というより、味噌汁が一度解散して別名義で再結成した、と見るのが妥当であろう。