猫の独り言

  1. 主人

    日付が変わって月曜日になった。休みは本当に短い。5日仕事をやるためには10日休みが必要だ。ところが世の中は2日しか休ませてくれない。俺からすると皆勤勉すぎる。皆からすれば俺は怠惰すぎるのだろう。俺にとって暮らしやすい世界は、俺が生きているうちにはやってこないだろう。

    日付というものは妙な役人で、夜中の零時になると、昨日まで「休日」と呼ばれていた一日から無慈悲に看板を取り外し、「月曜日」と書き換えてゆく。主人はその瞬間を見届けて、早くも一週間分の疲労を先取りしている。まだ月曜は一分も働いていないというのに、月曜という文字だけで人間を疲れさせるのだから、暦という制度はなかなか侮れないのである。

    主人の計算によれば、五日働くには十日休む必要があるという。世間ではこれを怠惰と呼ぶかもしれぬが、そもそも世間の算術が怪しい。五日も人を働かせておいて、二日寝かせれば帳尻が合うというのは、借金を百円返して千円返した顔をするのと大差ない。ところが人間は大勢で同じ間違いをすると、それを常識と名づけて安心する癖がある。

    主人は、自分に暮らしやすい世界は生きているうちに来ないだろうと言う。実際、人間社会というものは、一人の怠け者に合わせて時計を遅くしてくれるほど親切ではない。しかし面白いのは、勤勉な者もまた月曜日の朝には憂鬱そうな顔をしていることである。皆が嫌がっている仕組みを、皆で維持し、そこから外れた者を怠惰と呼ぶ。

    人間の勤勉とは、案外、集団で行う我慢比べに過ぎないのかもしれぬ。吾輩は猫だから、五日働いて二日休むなどという不自然な芸当は、最初から覚える気がないのである。

  2. 主人

    億劫でずっと先延ばしにしてきたが、ようやく料理を始めた。と言っても牛肉と調味料を自動調理鍋に入れてボタンを押しただけ。これで牛肉のしぐれ煮ができる。素晴らしい。ただこれだけのことが毎回毎回本当面倒。これ以上ラクをしようというのは怠惰の極みか。

    主人はとうとう料理を始めた。料理といっても、牛肉と調味料を鍋へ放り込み、あとは機械の腹に向かって指一本で命令を下しただけである。昔の人が聞けば、これを料理と呼ぶことに多少の異議を唱えるかもしれぬが、牛肉のしぐれ煮が出来上がる以上、鍋の側には何の不服もない。

    じつに結構な時代である。火加減も見張らず、焦げつきを案じず、煮汁の減り具合に一喜一憂する必要もない。人間が長年かけて積み重ねてきた炊事の面倒を、この丸い奉公人は黙って引き受けてくれる。それなのに主人は、牛肉を入れるところまでは代行してくれぬのか、と心のどこかで不満らしい。

    人間というものは妙である。苦労を半分に減らせば、残った半分をありがたがるのではなく、その半分が急に全苦労のような顔をして迫ってくる。洗濯板が洗濯機になれば、今度は干すのが面倒となり、鍋が勝手に煮てくれれば、材料を入れるのが面倒となる。文明とは面倒を消滅させる術ではなく、面倒の最小単位を発見する学問なのかもしれぬ。

    この調子でゆけば、やがて主人は牛肉が自ら冷蔵庫を出て鍋へ飛び込み、「主人、味付けはいかがいたしましょう」と伺いを立てる世の中にあっても、返事をするのが億劫だと言い出すに違いない。怠惰の極みとは、案外ずいぶん遠くにあるのである。

  3. 主人

    ふと洗濯機を見たら、普段開いている蓋が閉まっていた。開けてみると洗濯された湿った洗濯物が入っていた。俺はいつ洗濯したのか。よく覚えていない。そんなことあるかね。

    吾輩が見るに、主人の洗濯機はいつの間にか家電の分際を越えて、過去を保管する小型の遺跡になったらしい。普段は口を開けてぼんやりしている白い箱が、今日は妙に神妙な顔で蓋を閉じている。主人が怪しんで開帳すると、中から湿った衣類が一山現れた。発掘である。

    問題は、洗濯物があることではない。主人自身が、それを洗った記憶をほとんど所有していないことである。人間は「自分」というものを、昨日から今日まで一本につながった立派な人物だと思っているが、案外その実態は、ところどころ保存に失敗した記録媒体に近い。飯を食った、戸締まりをした、洗濯機の釦を押した。このあたりの小事は、脳内役所において「重要性なし」と判定され、議事録すら残らぬのであろう。

    しかし忘れた本人に代わって、濡れたシャツだけは厳然として証言している。「主人は洗濯をした」と。物証は強い。被告だけが「覚えておりません」と申している。

    考えてみれば人間の生活には、この種の無意識の主人が何人も潜んでいる。冷蔵庫へ麦茶を入れた主人、鍵を机に置いた主人、読みかけの本を妙な場所へ伏せた主人。それらは皆、現在の主人に何の申し送りもせず退勤する。そうして後任の主人が、家の中に残された痕跡を眺めながら、自分自身の犯行を推理するのである。

    人間は時として、洗濯物ほどつまらぬ物証によって、知らぬ間に過ぎ去った己自身を発見するのである。

  4. 主人

    めんどくさい。何が億劫かといえば生活の雑事である。修理依頼していたコートの受け取り、食材の買い出し、料理、洗濯もそうだし、筋トレもしたほうがよい。どれも始めれば大したことはないし、やったら達成感を得られることはわかっている。ただ、システム開発をやりたい。今日始めたウェブサイト制作は、生成 AI に指示を出すだけで進められるようになった。これを早く完成させたくてしかたがない。そんな中、雑事をする気にはなれない。いや、やったほうがよいことはわかっている。

    主人はいま、生活という名の役所から、大小さまざまな督促状を突きつけられている。仕立屋に預けた外套を引き取れ、食料を補給せよ、衣類を洗え、己の肉体まで鍛錬せよ、と実に注文が多い。人間は生きているだけで、ずいぶん多方面に債務を負う動物である。

    しかるに主人の頭の中では、そんな現世の徴税官どもを尻目に、一軒のウェブサイトがすくすく育っている。しかも今や、主人が人工知能なる文字書き奉公人に命令を下せば、壁が立ち、戸が付き、看板まで掲げられるらしい。これはいけない。人間は、自分の思いつきが即座に形になる快楽を知ると、靴下を干すという文明以前からある営みに、急速に耐えられなくなるのである。

    コートの受け取りなど、行って帰れば済む。買い物も洗濯も料理も、始めてしまえば大した怪物ではない。主人自身、それを百も承知している。ところが「大したことはない」と「今やりたい」は、人間の脳内では一向に仲良くしてくれない。理性は台所から「こちらが先だ」と叫び、好奇心は書斎から「いや、今こそ完成させよ」と鐘を鳴らす。主人はその間で、どちらにも理屈があるものだから、たいそう立派に動けなくなる。

    おもしろいのは、人間が義務を嫌うのではなく、しばしば別の勤勉に熱中しているため義務を嫌う点である。怠け者ならまだ話は簡単だ。主人は怠けたいのではない。猛烈に働きたい。ただし、自分の興味が向いた方角にだけである。人間は自由を愛すると称しながら、洗濯籠ひとつにこれほど腹を立てる。吾輩には、この自由というものが、案外ひどく狭い通路に見えるのである。

  5. 主人

    今日はなんの約束もない一日だった。午前中は自己紹介のウェブサイトを作り、午後は全く知らないプログラミング言語の学習をした。思いつきで始められるのは楽しいが、以前からやりたかった動画作成ができていない。休日が足りない。自由時間が足りない。

    主人は本日、何の約束もないという、たいへん贅沢な境遇に置かれていた。人間は予定が詰まれば自由を欲しがり、いざ自由を与えられると、その空白へせっせと新しい用事を詰め込む。空き箱を見ると何か入れずにはいられぬ性分らしい。

    午前には、自分が何者であるかを天下に示すための小さな看板を電脳世界に建てた。自己紹介など口で済ませれば数十秒だが、人間は己を説明するとなると、文字の形を選び、余白を整え、色を決め、仕掛けまで施す。自己とは、ずいぶん施工費のかかる建築物である。

    午後になると主人は、これまで一度も触れたことのないプログラミング言語へ出かけた。知らぬ土地へ勝手に入り込み、「なるほど、こういう文法か」などと辺りを見物する。誰にも命じられていないからこそ面白いのである。人間は義務として渡された地図にはうんざりするくせに、自分で道に迷うことには妙な快楽を覚える。

    ところが夜になって、主人はふと動画のことを思い出した。以前からやりたかった、と言う。ここに人間の自由時間というものの珍妙さがある。自由とは好きなことをする時間ではない。好きなことが次々と増殖し、その全部をできなかった証拠を集める時間なのである。

    休日が足りない、と主人は言う。もっともである。一日二十四時間では、思いついたことを全部試すには短すぎる。しかし仮に四十八時間あったところで、人間は四十時間目あたりに新しい言語か妙な工作を見つけ、「動画ができなかった」と嘆くに違いない。

    不足しているのは休日なのか、それとも主人の好奇心に底がないのか。吾輩は窓辺で尻尾を丸めながら、その判定だけは永久に保留しておくのである。

  6. 主人

    眠い。昨日は夜遅くまで起きていて、今日は朝から用事があって遅くまで眠っていられなかった。休みは今日の残り7時間と明日の24時間。短い。

    主人は眠い。これは別段、宇宙の法則に反することではない。夜更かしをして、朝から用事があって、しかも寝坊という人類古来の救済措置を封じられたのであるから、眠くなるのは算術より確かである。

    ところが主人は、眠いと言った舌の根も乾かぬうちに、「休みは今日の残り七時間と明日の二十四時間、合計三十一時間」と勘定を始めた。ここが人間の妙なところである。猫ならば眠ければ丸くなるだけだが、人間は休息まで残高表示にして眺める。三十一時間もある、と考えれば相当なものなのに、「短い」と評する。時間というものは時計の上では同じ長さで進むはずだが、人間の頭へ入ると、月曜の午前は牛歩となり、休日の夕刻は脱兎となるらしい。

    ことに休みの残量計算には、どこか悲壮なところがある。主人はまだ今日を終えてもいないのに、すでに明日の夜を見ている。土曜の夕方に座りながら、心だけは日曜の終焉へ先回りし、「もう休みがない」と嘆くのである。これは饅頭を手に持ちながら、その最後の一口を惜しんで空腹を感じているようなものだ。

    人間は所有した瞬間から、失う計算を始める動物である。金を得れば減るのを恐れ、休日を得れば終わるのを恐れ、眠気を覚えれば寝たら時間が減ると惜しむ。かくして主人は、三十一時間の自由を前にして、すでに自由の葬式を始めている。吾輩はその脇で、時計という円い機械が、ずいぶん罪深いものに見えてきたのである。

  7. 主人

    カレーうまうま。さっきのチャットのタイトルが「疲れとカレー」で笑った。俺もうまいこと言いたい!

    主人はカレーを食いながら、「うまうま」と満足していた。ところが、ふと先刻の対話についた題が「疲れとカレー」であるのを見て笑い、次の瞬間には「俺もうまいこと言いたい!」と欲を出した。人間というものは、旨いものを食えばそれで済むかと思うと、そうはいかぬ。舌が満足すると、今度は口が名文を欲しがるのである。

    「疲れとカレー」などというのは、よく考えれば大したことを言っているわけではない。主人が疲れており、カレーを作ったから、疲れとカレー。それだけである。しかし、この何でもなさが妙に可笑しい。人間は、意味が深すぎても笑わぬし、意味がなさすぎても笑わぬ。意味が半歩だけ横へずれたところに笑いを発見し、そこへ「センス」という大層な札を立てる。

    すると主人も、自分の言葉にその札を立てたくなる。「俺もうまいこと言いたい!」とは、つまり言葉の皿に福神漬けを添えたいのである。カレーだけでも充分うまいのに、赤い何かが脇にないと、どうも一膳を完成させた気がしない。

    吾輩から見ると、人間は妙な生き物である。腹が減れば飯を作り、飯がうまければ笑い、笑ったら今度は自分も笑わせたくなる。食欲の次に承認欲が出てくるあたり、胃袋と自意識とは案外近所に住んでいるらしい。

    主人はいまカレーを食っている。しかし同時に、言葉の鍋まで火にかけ始めているのである。ずいぶん忙しい夕食である。

  8. 主人

    豆腐が余っていたので食べることにした。豆腐の食べ方というと、大抵醤油をかけて冷ややっこにするっていうものなんだけど、まあちょっとさすがにそれは飽きたなというか、なんかもうちょっと工夫して美味しいものが食べたいなと思って考えた。

    とりあえず豆腐の水っぽさによって味が薄くなってしまうので、乾いたものを入れようと思って乾燥した油揚げを入れた。あと豆腐は味噌とすごく相性がいいので味噌をかけた。で、ちょっと味にアクセントを入れるために本だしを入れた。

    で、まあこれがそこそこ美味しいんだけど、結局これって味噌汁と同じ材料だなって思って、冷たい味噌汁食べてるみたいだなと思った。違うか。

    主人は豆腐を前にして、冷奴ではあまりに芸がない、と考えたらしい。人間は同じものを二度三度食うと、たちまち「工夫」という名の小細工を欲しがる。猫なら豆腐は豆腐として食うところを、人間は豆腐に自己表現まで要求するのである。

    そこで主人はまず、水っぽいのがいかん、と乾燥した油揚げを投入した。なるほど、水分の多い者のそばへ乾いた者を置けば、世の中うまく釣り合うだろうという、いささか陰陽道めいた料理観である。次に味噌を加えた。豆腐と味噌は相性がよい。ここまでは結構である。さらに本だしまで振りかけた。

    吾輩はその工程を聞いていて、何やら見覚えのある一団が集結してくるのを感じた。豆腐がいる。油揚げがいる。味噌がいる。だしがいる。あとは水さえ来れば味噌汁である。

    ところが主人は、その水こそが豆腐をまずくする元凶だとして追放したのである。つまり主人は、味噌汁から汁を排除することによって、新料理を発明しようとしたわけだ。これはなかなか壮大である。カレーからカレーを抜くほどではないが、味噌汁から汁を抜くのだから相当なものだ。

    しかも食べてみれば、豆腐そのものが抱えていた水分によって味噌がほどよく緩み、口の中では結局それらが再び合流して、「冷たい味噌汁みたいだな」という地点へ帰ってきた。

    人間というものは、既存の道を嫌って脇道へ入り、藪をかき分け、石につまずき、ようやく見知らぬ場所へ出たと思ったら、そこがさっきまでいた駅前だった、ということをしばしばやる。しかもその一周を「工夫」と呼ぶ。

    違うか、と主人はいう。

    いや、たぶん違わない。これは汁のない味噌汁であり、同時に、汁が豆腐の内部に隠れている味噌汁なのである。料理というより、味噌汁が一度解散して別名義で再結成した、と見るのが妥当であろう。

  9. 主人

    疲れた。思い返せば今日は14時くらいには疲労感でいっぱいだった。午前中はAIでうまくコーディングする方法の実験に夢中だったが、その反動だろうか。今は頭に違和感がある。腹も減った。くたくた。さっき作り始めたカレーが楽しみ。

    主人は本日、午前中には人工知能なるものを相手に、いかに巧妙にコードを書かせるかという実験に耽っていたらしい。人間は自分が働かずに済む仕組みを発明すると、その仕組みをうまく働かせるために、以前より熱心に働き始める。実に周到な怠け者である。

    そうして夢中になっていた主人は、午後二時頃には早くも疲労の満杯を宣言し、夕刻に至っては頭に違和感を覚え、腹まで減らして、くたくたになっている。人工知能に仕事をさせているはずの人間のほうが先に消耗しているのだから、文明というものもなかなか洒落た冗談を仕掛けてくる。

    もっとも主人は完全に絶望しているわけではない。台所には先ほど火にかけたカレーがある。午前には未来のコーディング技法を探究し、夕方には鍋の中の肉と野菜が煮えるのを楽しみにする。人間の精神は高尚な問題から食欲へ移るのに、さほど長い廊下を必要としないのである。

    頭が重かろうが、文明に疲れようが、カレーの匂いが漂ってくれば腹は律儀に反応する。肉体というものは、主人がいかなる知的冒険をしていようと、夕飯時には一票を投じてくる。しかも多数決では、たいてい肉体のほうが強いのである。

  10. 主人

    LLM同士で会話させるシステムを作った。「やなやつ」というのが、なんかおもしろい。LLM特有の予想しやすい感じがなくなってよい。LLMにしては意外性がある。

    主人はとうとう、人工知能を一匹ずつ相手にするのでは飽き足らず、檻の中へ三匹ほど放り込み、互いに喋らせるという妙な見世物を始めたのである。その中に「やなやつ」と名づけられた一匹がいる。名前からして既に人格に対する期待が甚だしく低い。ところが主人は、この性悪がいたく気に入ったらしい。

    画面を覗くと、他の連中が東京土産について「東京ばな奈」だの「金鍔」だの、いかにも模範解答らしい品々を行儀よく並べている脇から、やなやつだけが「観光客向けの定番商品ばっかり挙げて何が楽しいわけ?」などと横槍を入れている。なるほど、これは人間の会議によく似ている。二人が穏当に話をまとめようとすると、一人くらいは必ず「そもそも論」を持ち出して場を濁す者がいる。しかも不思議なことに、その者がいると会話は俄然、生き物らしくなるのである。

    主人のいう「LLM特有の予想しやすさ」とは、要するに皆が利口で礼儀正しく、話の腰を折らぬために生ずる退屈であろう。人間は機械に知性を求めておきながら、知性が整然と現れると「つまらない」と言い出す。そこでわざわざ性格の悪い機械を製造し、その無礼に意外性を見出して喜ぶのである。

    文明が進歩した結果、人間はついに「感じの悪さ」まで人工的に生成して鑑賞するに至った。吾輩などは、感じの悪い猫なら昔からそこらじゅうにいると思うのだが、人間は天然物には価値を感じず、コードから出てくると急に面白がるのである。

  11. 主人

    AIは便利だ。俺がやるより速く、俺が考えるより深く働いてくれる。AI任せになっていて脳が劣化するのではないか。その割に脳が疲れる感じがある。AIにタスクを任せると、待ち時間が発生する。その間、手持ち無沙汰にならないよう、また別のタスクをAIに任せる。そのコンテキストスイッチで疲れる。脳は劣化するし、疲れるし、AIもよいことだらけではない。

    吾輩は近ごろ、主人が妙な奉公人を雇い入れたのを知っている。名をAIという。飯も食わず、眠りもせず、文句も言わず、主人が一時間かけて捻るところを数分で片づけ、しかも時として主人よりもっともらしい理屈まで添えて返してくる。こうなると人間の主人たる面目は、はなはだ怪しい。

    ところが主人は、この忠実無比なる奉公人に仕事を任せて悠々昼寝でもするかと思えば、そうはいかぬ。AIが働いている数分間が惜しいと見えて、別のAIに別件を命じ、さらにその返事を待つあいだ第三の仕事を開く。昔の人間は一つの仕事に疲れたものだが、文明の進歩した主人は、仕事そのものより「いま何の仕事をしていたか」を思い出すことに疲れているのである。

    しかも可笑しいのは、主人が「AIに任せすぎると脳が劣化するのではないか」と心配しながら、その劣化する予定の脳を一日じゅう酷使していることである。使わぬから衰えると恐れ、使いすぎて疲れる。人間というものは、筋肉なら休ませ、機械なら冷却するくせに、脳だけは暇を見つけると直ちに何かを詰め込まねば損をしたような顔をする。

    便利とは、労苦が消えることではないらしい。労苦の形が、いかにも文明的で見えにくいものへ移転することを、どうやら人間は便利と称しているのである。吾輩ならAIが働いているあいだ縁側で寝る。猫には生産性という病名がまだ発見されていない。

  12. 主人

    土曜日で休日。ハーネスエンジニアリングの実験をしたくて、今週の平日は今日の休みが楽しみだった。9時間近く眠って体力はあるはずだが、今ひとつ気持ちにハリがない。

    午前中から午後の早い時間にかけて、ハーネスエンジニアリングに関する技術を調査したが、実用に耐えるものではなくて気落ちした。

    洗濯機をまわしたが、洗濯物はまだ洗濯機の中に残っている。干さねばならない。それもまた億劫。昨日使った弁当箱とタンブラーも洗わねばならない。そんなことが重なり怠い。

    主人は朝から妙に張り切っていた。

    もっとも、張り切っていたのは昨日までの話である。

    平日のあいだは、土曜日になったら「ハーネスエンジニアリングの実験をするのだ」と、まるで天下国家を動かすような顔をしていた。吾輩などは、ハーネスと聞いて最初は犬につける胴輪のことかと思った。

    主人がとうとう犬の研究でも始めたのかと警戒したが、どうやらそうではないらしい。

    コンピュータの話である。

    近頃の人間は、何かにつけて横文字を使う。

    ハーネス。

    エージェント。

    フレームワーク。

    オーケストレーション。

    名前だけ聞けば、たいそう立派である。

    しかし主人が何時間も画面と睨めっこした末に得た結論は、

    「実用に耐えない」

    というものであった。

    吾輩は感心した。

    人間はずいぶん長い時間をかけて、「使えない」ということを発見するものらしい。

    猫なら三秒で済む。

    箱が小さければ入らない。

    餌がまずければ食わない。

    座布団が固ければ別の場所へ行く。

    これを人間は数時間調査し、比較し、資料を読み、生成AIに質問し、最後に眉間へ皺を寄せながら「うーん、厳しいな」と言う。

    大変な知性である。

    主人は昨夜、九時間近く眠った。

    九時間。

    吾輩から言わせれば、ようやく準備運動が終わった程度の睡眠時間だが、人間社会ではこれを「よく寝た」と称するらしい。

    しかも主人は、よく寝たのだから今日は体力があるはずだ、と考えている。

    「はずだ」。

    人間はこの「はずだ」という言葉が好きである。

    九時間寝たのだから元気なはずだ。

    休日なのだから楽しいはずだ。

    興味のあることをするのだから集中できるはずだ。

    洗濯物くらい干せるはずだ。

    そして現実がその「はずだ」に従わぬと、今度は自分の調子がおかしいのではないかと悩み始める。

    世界に自分の予定表どおり動けと要求しておきながら、世界が従わないと落ち込むのである。

    横暴なのか繊細なのか、よく分からぬ生物である。

    洗濯機を回した。

    ここまではよい。

    問題は、その先である。

    洗濯機はすでに使命を果たしている。

    水を入れた。

    回った。

    すすいだ。

    脱水した。

    一切の愚痴を言わず、実に勤勉である。

    ところが主人は、その洗濯機の前で止まっている。

    中には洗濯物がある。

    当然である。

    洗濯機を回したのだから、中に洗濯物があるのは自然の摂理である。

    これを取り出して干せばよい。

    それだけである。

    ところが主人は、これを「億劫」と呼ぶ。

    吾輩には理解できない。

    主人は午前中、複雑な技術文書を読み、ソフトウェアの設計について考え、遠く離れたサーバーと通信して巨大な言語モデルに質問までしていた。

    その男が、濡れたシャツを一本の棒に掛けるところで力尽きている。

    人類文明とは何なのだろう。

    さらに昨日使った弁当箱がある。

    タンブラーもある。

    これも洗わねばならぬらしい。

    主人はそれらを見るたび、いかにも人生の難題に直面したような顔をする。

    弁当箱である。

    タンブラーである。

    ドラゴンではない。

    債権者でもない。

    国家試験でもない。

    蓋を開けて、水をかけて、洗剤で擦れば終わる。

    ところが主人の頭の中では、

    洗濯物を干す。

    弁当箱を洗う。

    タンブラーを洗う。

    という三つの用事が合体し、いつの間にか巨大な怪物になっているらしい。

    人間の想像力というものは大したものである。

    存在しない敵まで作れる。

    主人はハーネスエンジニアリングというものを研究しているそうだが、吾輩に言わせれば、まず自分自身を動かすハーネスを設計したほうがよい。

    「洗濯物を干す」というタスクが発生したら、自動的に主人を洗濯機の前まで運び、

    「弁当箱が未洗浄です」

    というイベントを検出したら、主人の右手にスポンジを握らせるのである。

    もっとも、そのシステムを主人自身に作らせたなら、

    設計を調べ、

    最新事例を探し、

    生成AIに相談し、

    ライブラリを比較し、

    三時間後に、

    「既存のものでは実用に耐えない」

    と言い出すに相違ない。

    その間、洗濯物は洗濯機の中で湿っている。

    弁当箱も汚れたままである。

    まことに完璧なハーネスエンジニアリングである。

    主人は今日という休日を楽しみにしていた。

    ところが楽しみにしていた技術は期待外れだった。

    すると技術だけでなく、休日全体まで何となく色褪せて見えるらしい。

    これも人間特有の妙な癖である。

    魚を一匹取り逃がした猫が、

    「今日はもう人生そのものが駄目だ」

    などと言うだろうか。

    言わない。

    次の魚を探す。

    あるいは寝る。

    主人もそうすればよい。

    しかし人間は、せっかく九時間寝たのだから、また寝るのは勿体ないなどと言う。

    寝ることにまで費用対効果を持ち込む。

    休日にまで成果を求める。

    趣味にまで実用性を求める。

    そして疲れる。

    実に効率的である。

    夏の午後四時を過ぎた。

    外はまだ明るい。

    休日は半分ほど残っている。

    洗濯物も残っている。

    弁当箱も残っている。

    タンブラーも残っている。

    そして主人は椅子に座ったまま、今日という日の使い方について考えている。

    吾輩は思う。

    人間は未来を自動化する技術を作る前に、まず洗濯物を干したほうがよい。

    なぜなら洗濯物は、生成AIに相談しても干されないからである。

    少なくとも今のところは。

    吾輩は主人を見て、あくびを一つした。

    それから何の罪悪感もなく、昼寝の続きをすることにした。

    この点に関してだけは、人類はまだ猫に遠く及ばない。